第27章 ソロバン先生とルナ

それから一ヶ月後の18日の夕刻から夜半にかけて、博士の家の前に黒塗のリムジンが次々と止まった。降り立った人物たちは、何かを避けるように皆、足早に博士の家へと消えていった。
外はやや薄墨色に染まりかけ、たっぷり博士の家を包んでいた日の名残りも、もう十分とばかりに彼らの訪問を待ちかねたように、夜の帳へと引き継がれて去っていった。
アジアからヨーロッパから、アフリカから、オセアニアから南米からと集まった。それぞれの国ではもちろん、世界的にもその言動が常に注目されている人物達だ。博士とは超大国相手にひるむこと無く、その好戦的動静に対し、共にあらゆる国際的公開の場で激しく批判をし、戦った仲間達である。芸術文化にも精通し、最高の文学賞を取った文学者もいる。思想的対立で若さにまかせてやりあった思い出の仲間もいる。博士が世界から選りすぐった6人の賢者たちだ。
そして皆、博士の信奉者たちだ。
久しぶりに懐かしい顔に会った博士は一人一人と抱き合って旧交を温めた。そして今日は特別にロッコのお父さんお母さん、きいちゃんも呼ばれていました。きいちゃんの服装がひと際目だっています。グレーのワンピースに首周りにたっぷりと巻かれたストールは蛍光色のピンクです。足もとのルージーな厚手のハイソックスも同色です。少し派手です。
駅で待ち合わせて、お父さんの車にお母さんと乗ったとき、滅多に口を出さない、お父さんが、さすがにきいちゃんに言いました。
「今日はそういう格好で行くところじゃないんだよ、少し場のことも考えなくちゃ」
「、、、ハイ、、」とても小さな声で返事をしました。
きいちゃんとしてはお母さんが少し間違えて言った
「今日は博士の優秀なお弟子さんたちがたくさん来るそうよ」という言葉を信じて、若い研究員に囲まれている自分を想像してしまったのです。もちろんその後、博士の家で最も落胆したのはきいちゃんだったのはいうまでもありません。

全員そろったかに見えましたが博士はまだ落ち着かない様子でした。お父さんとお母さんは博士とサッチーナ夫人の出迎えを受け4人は固い握手をしました。
きいちゃんはロッコが2階にいると聞くや「ロッコ!」と叫んで2階に駆け上がっていきました。お父さんとお母さんは、是非ロッコの行く末にもつながる事なのでオブザーバーとして、6人の賢者達との話し合いを聞いていて欲しい、という博士の強い希望でリヴィングを一望できる一段下がった読書室のソフアに案内されました。
その時玄関の呼び鈴が鳴り、ドアを開けると、クラシックな黒のワンピース、白いブラウスにカメオのブローチ、黒縁の眼鏡に黒いパンプス、というまるで“質素で誠実”を体現したような中年の女性が、やや緊張した面持ちで立っていました。右手に籐を編んで作った大きなバックを大事そうに抱えています。ソロバン先生です。ロッコの家庭教師の先生です。
すぐ後ろに先生の弟のダリル。これから一年間、博士の家に間借りする姉の荷物運びの手伝いに、ついてきました。小さな女の子がダリルの大きな体に隠れるように恥ずかしげにこちらの様子をうかがってます。

ソロバン先生は元小学校の教師で、博士が匿名で募集した家庭教師募集広告を見てやって来たたくさんの人たちの中から、博士が特に気に入ったとてもユニークなひとです。なにしろ家庭教師の相手がネコだとわかると、多くの人が憤然として席を立って
「何とまぁ、何てことをおっしゃるの!」
「馬鹿にしないでください!」
「ネコにわたくしが勉強をおしえろですって!」
と散々でしたから。

ソロバン先生だけが、全てを聞いたあと、落ち着いた口調で
「それでロッコに今、会えますか」と言った。
すぐにロッコが呼ばれ、二足歩行でちょこまかちょこまか彼女の前にきてペコリと頭を下げ
「よろしくおねがいします」と言った時にもまるで驚く様子も無く平然と
「私はきびしいですよ。宿題も出しますし、何といってもそういう事情なら、あなた自身の相当の努力が必要ですよ。わかってますか」と、言った。

ハイ、これはボクも望んでいたことですから、大丈夫です。
とにかく、学校に行きたいんです! そのためには、どんな努力もするつもりです。
先生の期待にきっとこたえられるとおもいます。

ロッコの毅然としたこの言葉には、さすがのソロバン先生も、想像以上に大人のロッコを感じた。すぐに博士の方を振り返りうなずいた。

「いやぁ結構結構、」
博士は上機嫌でロッコの肩をぽんぽんとたたきました。ロッコも先生がなんの偏見も拒否反応も無く最初からふつうの生徒と同じように扱ってくれたことが、とてもうれしかったのでした。

その日、改めてロッコの進路に関して、話し合いが行われました。これはロッコに“物事の始まりと、終わり。なり立ち”など小学校、中学校レベルの基礎教育をぜひ学んでほしい。今のロッコの得た知識はここからスタートしているということ。図工、音楽、体操など好きか嫌いかは別に全般的に勉強してみな、大人になったということも、学ばせたい、という博士とサッチーナの考えからです。

結局小学校4年生に編入という結論に達しました。
“小学校の教育が最も大事だ“という意見にはロッコを除いて全員が一致をみました。
ロッコは大学院の次にはもう学校はないの、などと言っていました、、が。博士としては三年後の危機の特定、そしてその対応の為に、最後の一年は残しておきたかったので、そこに至る二年間を人類にとって“不可欠な二年間”と位置づけ、一年目を“ロッコの研究”の為に次の一年はロッコ自身の“成長”の為にと思い描いていました。

ソロバン先生も今日の会合に呼ばれていました。何しろこれから1年近く、ロッコの日常のすべてに、目を開かす訳ですから大事なスタッフのひとりです。
「いやぁミス.ソロバンよくいらっしゃいました」
「今晩は博士」
先生はダリルを紹介し、
「それからこの子は、、」
と、ダリルの後ろに隠れていた女の子の手を引いて
「うちの娘の大の仲良しで、今日はロッコに是非会いたいというので連れてきました」
きれいにカットされたおかっぱの黒髪が、玄関広間に吊るされた、クリスタルの束から放たれた、光の一雫に映えて、艶つやと美しい。博士は思わぬ珍客に目を細めた。
「ふうん、かわいいお嬢さんだねぇ、まるでお人形さんみたいだ、お嬢さんお名前は?」
「しずこ、」
「Shizu、、?」
「しずこ、です、博士。私の学生時代の親友の娘で、彼女が仕事で家を空けるときいつも預かっているんです。でもとってもシャイで、、」
「シャイ結構、東洋人の美徳ですよ。それよりあなたさっき、うちの娘の大の仲良しといわれていたが、、失礼だがお嬢さんいらしたの?」
「ええ、連れてきましたよ」
「え!?どこに」
「ここに。でもいますっかり眠ってますけど」
というとソロバン先生はだいじにかかえていた籐の籠をそっとあけた。
純白という言葉がぴったりの美しい白い毛に包まれた、まだ、あどけない子ネコがすっかり寝入っていた。
“ルナ”
おとなしかった、しずこがのぞき込むように声をかけた。
「ルナ?」
博士の声にゆっくりと目を開けたルナは、博士の顔に一瞬驚いた様子を見せたが、直ぐにしずこをみつけ、甘えたように
「ニャ〜アァン」と可愛い声を上げた。
「なんと美しい!、、これはなんですか、」
およそ知らない事がない博士の博識ぶりにも、おもわぬ弱点があった。
イヌ、ネコのこと、簡単な種類さえ知らないことである。
「えぇ!?、ネコですよ!」
「ネコ! エェ?え?、ネコ? これ!?、ロッコと随分違う、、」
「当たり前ですよ、種類が違いますし、女の子ですから、、」

そのとき、ロッコはきいちゃんと2階の書斎でサッチーナから宇宙について話を聞いていたところでした。
今日の会合は博士の考えで最初はロッコ抜きで行なうと決まっていたので、サッチーナがロッコとともにいたのです。

「、、、だから理論上は2006年に発表されているの5次元は、、」
そのさっきおっしゃったサッチーナ先生が尊敬している科学者の方、、
「そう彼女の業績。すばらしい科学者よ、そして彼女も、全世界の科学者も、注目の実験が2008年に行われた、ちょうど山を、横にくり貫いたような実験場で、人為的にビッグバンを起こして、、」
わぁぁ!すごいなぁ!
きいちゃんも、負けずに「すごいんだなぁ!」
「画期的な実験だった。たくさん収穫はあったの。でも残念ながら、5次元の証明にはいたらなかった」
それからずっと、、?
「そう、それからずっと今日までだれも、、」
証明していない!だれも?
「そう」
きいちゃんも聞いてみました。
「だれ、、も?」
「そう」
本当に宇宙に5次元はあるんですか?
「もちろん!」
と、いってサッチーナは笑った。
「私は確信しています。5次元抜きに宇宙は語れない」

ロッコは額の中心あたりが熱くなっていくのを感じた。集中してきた。全神経が研ぎすまされてきた。ロッコは5次元を研究してみたくなった。
サッチーナはロッコの顔が見る見るうちに鋭く変貌していく様子を目の当たりにして、ハッと息をのんでいた。男の子として本当に可愛いとしか言いようのない、普段の顔つきから、あえて大きな難事にむかって、果敢に挑戦していく姿は、学術研究に、情熱を傾ける研究者のそれではなくサッチーナの大好きな神話の世界に現れる、若き戦士アイアスやアキレウスたちの精悍さを感じてしまうのでした。もっともロッコの存在はまさに現代の神話、そのものだけれど、、、、

互いが心に思うことに、耽っていたその僅かの間、会話がとまって、シ〜ンと静まり返った書斎に、やや不釣り合いな、ルナのなき声が、かたい空気を少しだけ追い出すように、はいってきた。
“ニャアァ〜ン“
ロッコが素早い反応をした。一瞬のうちに1階に続く階段の方に体をひねって耳をそばだてた。
(ネコだ! それもこの近辺にすむネコじゃない。危険は、、無い! 多分、1歳位未だ子供だし、女の子だ。それに家ネコだ誰かお客さんがきたんだ)
「ネコかしら? 今の、、ねぇロッコ」
サッチーナの反応が、間が抜けたと思えるほど、ロッコの瞬時につかむ情報量の多さは鋭い。きいちゃんは、難しい話の最中ずっとテーブルに出されている今まで見たことのない、ピンクの可愛い包み紙のお菓子を、分析していました。
“キャンディかチョコレート、、でもキャンディを包んだチョコレートということもあり得るわね。”
ふたりが1階の階段の方に体をひねった瞬間、きいちゃんは逆にお菓子に向かってからだをひねり、一瞬の早業で3、4個、ゲットしたのでした。きいちゃんの反応も、ロッコに負けずに人並みはずれて、鋭かったのでした。