第2章 美しい人

朝4時、目の覚めたロッコはいつものように、2階の長い廊下を音を立てないよう忍び足で、東向きの窓辺へとゆっくりとあるいていきました。

ロッコがまだ四つ足であるいています。

突き当たりの真っ白い壁には左に大きな出窓、右にほぼ同じ大きさの、とても古そうな立派な額縁に守られた、美しい女性を描いた油彩画が、ちょうど出窓と振り分けたように飾ってあります。褪色した金の小さなプレートに「Venus」とだけ書かれています。

絵の下には、アンティークのネコ脚の洋家具がおいてあります。ひょいっと、軽く出窓にあがったロッコは、くるりと体を入れ替え、窓に向かって足を投げ出して座り、目の前の厚手のカーテンと、もう一枚レースのカーテンの真ん中に手を入れると、いっきにジャッ、と左に30センチほど開けました。チラッと、いつもの星を見上げ、安心したように左手から順番に肉球の隙間を、ぺろぺろとていねいに身づくろいをはじめました。両手が全部終わると満足げにふぅ~、と、ため息をして遠く東の空の小さく輝く星に目をむけました。

ロッコはこの星が大好きです。この星の不規則なリズムでおくられてくる、光の点滅が、ロッコの好奇心を駆り立てて、いつもじっと両目でしっかり見つめていると、まるで何かに操られているかのように、だんだん眠くなり、けっきょく、もう1時間ここでひと寝してしまうことになります。

今日もやっぱり寝てしまいました。

まもなく夜のしじまが解き放たれ黒く、深く、濃く、塗り固められていた闇のカンバスのところどころのほつれから、まるで琥珀の樹液がにじみ出てきたようにいたるところが勝手に色染まり始めました。
朝焼けです。やがて時を経て、明るいブラウン、オレンジ、と受け継がれ、すっかり黄色く移ろい変わった、小さな朝陽がぐっすり寝入ったロッコの体を、柔らかく包み込んできました。ロッコは、なんともいえない幸せなこころもちになり、このまどろむ気持ちよさが忘れられず、毎朝ここにくるのが日課となっていました。

でも、今朝はなにかいつもと違う。ロッコは何かに突き起こされたように、目を覚ましてしまいました。

どうしたんでしょう。東の空を見上げると、、え!?
星が!、輝きが! ふだんと全然ちがう! ビッカビッカしてます。派手です!
一定のリズムでビカッ、ビカッ、っと、信号をおくっているようです。
ん、、!? なに? あれ、どうしたんだろう、、?
ロッコはまだ寝ぼけているのかなと思い急いで目をこすり、いつものように3回まばたきをしました。
ん、、!? 何か違う、いつもとちがう!

あっ! 大きいんだ!、いつもより大きい!?
ロッコは急いでまばたきをまた3回しました。

わぁ~~またでかくなった!?? たいへんだ!
どんどんこっちにくる~っ!
どうしよう!来る、来る!来る!
落ちてくる!落ちてくる!家(うち)に落ちてくる!
燃えるような金色に輝くその物体は驚くほど大きく膨れ上がり、すごい勢いでロッコめがけてとんできます。

たいへんだぁ!
キーーンゴーーン
物体とともに異様な音もだんだん大きく響きわたり、小さく立ったロッコの耳いっぱいに迫ってきます。
怖い、コワイィ~、、
す、す、すぐに、みんなに知らせなければ!
あッ、動かない!

体が動きません。固まってしまいました。もうロッコの目は見開いたままです。怖くてまばたきもできません。そうだ! おも、、おも、いっきり大きい声で鳴いて、、みんなにしらせよう!

どうしたんでしょう!?
鳴き声が全部、ベートーヴェンの交響曲No.5「運命」になってしまいます。

大変だ!
死んじゃう、死んじゃうう、、みんな死んじゃう!
お父さん、お母さん、きいちゃんが死んじゃう!
ロッコは必死です。

ゴォ~ォ、
ぶつかるぶつかる!
ドジャア~、
あ、雨?
えぇ!?雨?雨だ!あっ、金、金色?、、金色の雨だ!

まるで滝のような勢いで落ちてきます。
あっという間にロッコの頭上まで迫ってきたその物体は、あらかじめ決められていたかのように、寸前でピタリと止まりました。もう空は一部のすきもなく黄金色に輝き、そのありあまるエネルギーが、押し出されるかのように黄金色の雨がたえまなく降りつづけています。

ぶつからなかった!?
ロッコの体に固く強く張りついていたものが一枚ス~ッと剥がれ落ちていきました。

止まった!?、
止まったんだ!
ぶつからなかった!
あ~ッ、ぶつからなかった、はッ!ひ、ふぅぅ~うぅ、、
と、ため息をついたロッコは小さなネコのひたいに
たっぷり吹き出た汗をぬぐいながら、ゆっくりと顔を上げ、あたりを見わたして息をのみました。

ロッコの見慣れた風景は、庭も、樹々も、道も、家々も、すっかり黄金色に染まり、もうピッカピカです。さらに刻々と迫る日の出の勢いをうけて眩いばかりです。
輝きがますに連れ、ロッコは、ついさっき恐怖の真っただ中にいたこともすっかり忘れて、初めて見る黄金色の景色の美しさに、ただただ呆然と魅入ってしまいました。

そして、この不思議な体験に静かな感動を覚えはじめてきた時、黄金色に輝く天空のすきまから、鋭く放たれた光の束が東の窓辺を直撃しさらに艶やかに浮かび上がらせました。ロッコは自分も、黄金色に染まって輝いていることを知りました。

わぁぁ~かっこいい!
ロッコは、上機嫌です。
そうだ!きいちゃんにみせよう。
きいちゃんはいつも新しい洋服を買うとロッコに最初に見せて
「どう、可愛い~でしょう。ロッコはどうしていつも同じ格好なの~」
と、言って笑います。

今日こそ、きいちゃんを驚かそう!?
きいちゃんとは、ロッコが生まれて3ヶ月でこのうちに来た時、同時に入ったお手伝いの“きいれ”ちゃんです。きいちゃんの愛称でみんなに愛されている明るく元気な女の子です。とってもおしゃれです。

きいちゃんを呼ぶには「ニャンニョッ」と2回鳴けばいい。
「どうしたのロッコ?」ってすぐとんできてくれる。
ロッコは早くきいちゃんの驚く顔がみたくて、いつもより思いっきり大きい声で鳴きました。

あれぇ!? またNo.5「運命」の調子になってしまいます。

「ロッコ、、ロッコ、、」
どこか遠いところからロッコを呼ぶ声がします。

ロッコは小さな耳をそばだてて、声のするほうをじっと見つめました。
覚えのない声です。少し警戒モードです。

「ロッコ」
今度ははっきりと聞こえました。もう、すぐ近くです。でもなぜか警戒モードはだんだん消えていきました。とても優しい声です。ロッコは穏やかな気持ちなってきました。

誰だろう? 好奇心モードにかわりました。

目の前の空気がまたたく間に寄せ集まり、細やかな黄金の襞となってあっという間に即席のオペラカーテンとしてロッコの前に立ちふさがりました。やがてゆっくりと左右がつり上がり、待ち兼ねたようにカーテンが開き始めると中から勢いよく黄金色の光彩がさらに強くあたり一面に放たれてきました。ロッコはまぶしさに負けないよう、しっかり目を開いていました。

眩い黄金色の光のシャワーの中に、人のシルエットがみえます。
誰だろう?
ロッコの記憶には覚えのないかたちです。
女の人だ。
爽やかな風が、アマレット(amaretto)の甘い香りと共にロッコをつつみました。ロッコはとてもいい気持ちです。
「ロッコ」
ボクを呼んでいる!
ロッコは、声のするほうに歩いていきました。なぜか、警戒心もなく素直な気持ちになっています。

大きな布地のようなものがロッコの顔や体をすばやく撫でるように触れ、何かを確かめた様子で、ふたたびもとへと舞い上がっていきました。天空から降りた光のオビと風のオビです。まるでやんちゃな兄弟のように、戯れ絡み合って地上へと降りてその人の頭上で大きな渦を巻いていました。
光は、その人の未来を決める道を照らし、風は、その人の望むところへ連れて行く。光と風に守られてその人が現れました。金色に輝く長い髪を僅かになびかせ、気品ある彫りの深い顔立ちは強い意志を表し、澄んだ蒼い瞳は深い哀しみを湛えて居ました。
ロッコはびっくりしたままその人を見つめていました。
「ロッコ」
ロッコを愛おしむように呼んだ。

“キ・レ・イ”
ロッコはため息をついて、その美しい人を見上げました。